しゃぼん玉 

  しゃぼん玉 飛んだ
  屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで
  こわれて消えた
 
  しゃぼん玉 消えた 
  飛ばずに消えた 産(生)まれてすぐに
  こわれて消えた 風 風 吹くな
  しゃぼん玉 飛ばそ 

 
大正十一年に仏教雑誌「金の塔」に初めて発表された野口雨情の詩「しゃぼん玉」です。
雨情は妻ひろ子との間に長女みどりを授かりましたが七日目に亡くなり、娘恒子も二歳で亡くしています。
「しゃぼん玉」は亡くした子どもの「いのち」を詩っているのか、また、しゃぼん玉を飛ばして遊んでいる光景を見た雨情が娘が生きていれば、今頃はこの子たちと一緒に遊んでいただろうと思いながら書いた詩なのか定かではありません。

しかし、しゃぼん玉を生まれたわが子の「いのち」に置き換え、屋根は親の手元から離れていく表現なのか、愛する我が子が生まれてすぐに消えています。
風さえ吹かなかったら今頃は大きくなって他の子どもと仲良く遊んでいる年頃だろうと、「いのち」のはかなさを痛切にうたった詩ではないでしょうか。
改めて「しゃぼん玉」を口ずさんでみてください。

今日も飲酒運転の車に小学生がはねられ死亡したニュースが報道されました。
現代は、大人の作り出す飲酒や無謀な車の運転、幼児児童虐待やいじめなどの風がしゃぼん玉を襲っています。
物が豊になれば心が貧しくなり「いのち」の喜びが薄れ人と人のつながりも薄れています。
大人は子どもたちに「いのち」について語る必要があるのではないでしょうか。
しかし、大人が考えない伝えるものを持たないのも事実です。

親鸞聖人は、
『多少にも値(もうあひ)がたく』
【いくたび生を重ねてもなかなか会えない】
人に生まれる難しさ、人と人とはなかなか会えない、やっとのご縁で出会い喜びや悲しみをともにします。
宇宙に行くよりも一緒にいる隣の人と会う方が難しいのではないでしょうか。
隣の人とばらばらになって生活していませんか。
雨情のしゃぼん玉の様に最愛の子どもとの悲しみに出合われた方もいらっしゃいます。
また、こわれて消えそうなあなたのしゃぼん玉を必死で育ててくださった方々はどうしておられるでしょう。

しゃぼん玉の「いのち」は野口雨情の大正時代も今も尊い事に変わりあません。
先立った方々が『善知識』【仏道に入らせる縁を結ばせる者】となって私たちに念仏の道筋をつけてくださいました。
しゃぼん玉のいのちを大切にし、それを伝えることの出来る大人であるように、
この夏ご家族一緒にお仏壇の前に座って念仏申す日々を送られてはいかがでしょうか。
お寺もしゃぼん玉を育てるのに協力いたします。                                

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